Monday, April 16, 2007

アトランタ -サウス・カロライナ その4

 サウス・カロライナで住んだ一番最後の家だ。実はこの前に2件の家に住んでいたわけなのだが、実際に住んでいたその2件の家を見てきたが、はっきり言って、ガッカリした。古くなったことも確かだが、あまり手入れをしていないようだったからである。

 学校の家から移ってドリスとフランの家の近くに私の両親が家を購入したので、一緒に住むことになった。といっても彼らは一年の半分は日本に帰っていたのだが、実は1994年からとあるショっピンセンターにオリエンタル食品店を始めたのだが、2年半あまりで店は閉じることになってしまった。このいきさつはまた、ゆっくりと皆さんに紹介したいとおもう。

 この右の家はノースカロライナのシャーロットに移る前に1年間住んでいたレンタル・ハウスである。商売をたたんだ後ビザもなくこの先どうしようかと、路頭に迷っていた時期である。主人は寿司シェフとしてレストランで働き、私は知人のExpress レストランでパートで働いていた。唯は4年生だった。この家は2ベッドルームで小さい家だが、キッチンのキャビネットの数だけはたくさんあって、お鍋などが余裕でひとつ、ひとつ飾るようにおけたし、カウンターも広く、キッチンの使い勝ってはとても好きだった。裏庭はフェンスで囲まれていて、家には2匹の犬と猫がいたので、この庭は最適だった。雨の降った日は裏庭に出る前のところにランドリールームがあったのでそこに、犬たちの雨宿り場所として使うことも出来たのだ。私たちの必要の満たされた家だった。この家のオーナーもとてもいい人で、家賃を月2回払いに分けてくれたりして親切な人だった。先日訪ねたとき、この家にオーナーが住んでいるときいて、思い切って訪ねてみたら、彼がで出てきた。始めは思えだせなかったようだったが、話しているうちに思い出してくれた。あれから、もう8年、忘れるのもむりないね。 そういえば、唯のハムスターが死んでしまって、フロントヤードに埋めてお葬式をしたのを思い出す。

 サウス・カロライナには1992-1999年までの7年間住んでいた。思い起こせばいろいろなことがあったが、失敗したことも、悲しかったことも、すべて神様が私たちへの学びの場として与えてくださった毎日を大切に心の中にしまってある。失敗したことから乗り越えられて、悲しみが喜びに変えられたことは感謝なことだった。ドリスやフランは神様が与えてくれた私たちの導き手である。人はみな、人の助け無しには生きられない。自分だけで生きてきたと自嘲してしまったら、神様の手はそこには届かない。そんなことをサウス・カロライナにいたときに多く学ばされた。8年たった今も、サウス・カロライナは私たちの大切な、たくさんの思い出の詰まった故郷である。ここで学んだ7年間を土台に今の私たちがあるのだということをずっと胸に覚えていたい。。。。

Wednesday, April 04, 2007

アトランタ -サウス・カロライナ その3

 この丘の上に立つ白い家はカレッジハウジングである。アパートは洗濯機がなかったので、どこか家が空いてないか学校に聞いてもらったらこの家に住んでいた家族が出て行くというので家賃はアパートより少し高かったが、広大な庭と一軒屋というのが気に入って住むことになった。ベッドルームは3つで、お風呂はひとつだったが、リビングとダイニングルームがあって、ダイニングは特に素敵に作られていた。 じゅうたんの色がなんと、真っ赤だったのは驚きだった。田舎の教会のカーペットのあまりをもらってきたのではないかと、ちょっと笑えた。家具が全然合わなかったが、座れればそれでよかった。そういえば、アティックがあって小さな部屋になっていて、お客さんが泊まれるような部屋になっていたシングルベットを2つヤードセールで買って後にとてもかわいい部屋になったが、屋根に近いので暑いのが玉に瑕だったが、後にウィンドーユニットのエアコンを入れてもらったのでよくなった。

  この家には2年くらい住んだだろうか?私の両親も、主人の両親も尋ねてきた。この頃主人はエベネーザー・ウェルカム・バプテスト教会でミュージック・ミニスターをパートタイムで奉仕していた。唯は幼稚園、私は日華USAというケミカルの会社で研究所のアシスタントの仕事が決まり、家から60マイルの距離だったが仕事が与えられたことは感謝だった。唯を主人が学校が始まる前に、幼稚園に連れて行き、私が、仕事が終わったら迎えに行くというパターンだった。大変だったが、一生懸命でなにか楽しかったし、充実していたような気もする。あの頃自分は信仰熱心だと思っていたけど、今考えると、文句ばかり言って、感謝することを怠ってしまっていたのだと思う。車を2台買ったが、私は遠出をするというので、割とましなシボレーのサイテーションという車で、主人の車は一応トヨタだったが、錆びだらけのステーションワゴンで500ドルで近所の人から買ったが、いろいろ直し、直し、結構調子よく走っていた。車の廃棄のにおいがちょっときになったけどね。この車もしばらく乗ってから、学生に格安で売ったが、売れるからすごいと思った。だって、ぼろぼろなのに、学生には関係ないんだね。

  この家の一番好きなところはポーチ。このポーチで週末など休んでいると、道々走っていく車が挨拶していく。始めはなれなくて、主人の知っている人かと思って、何度も「知ってる人?」って聞いたりした。さすがサウス。会った人には挨拶誰でもするんだよ。フレンドリーでいいよね。この家に住み始めてから雑種の犬を飼うことになった。名前はクッキー。新聞で見つけたフリーの犬。たくさんいる中から、一番おとなしい犬をもらってきた。思ったとおり、賢い犬だった。でも、思春期を迎えたときに鎖をつけたまま、抜け出したり、他の犬が遊びに来ていたりしたかとおもったら、案の定、9匹の子犬をしばらくして産んだ。どの子犬もみんなかわいかったが飼いきれないので、新聞にフリーでだしてアダプトしてもらった。何匹かは私の会社の人にアダプトしてもらった。子犬がいなくなってから、クッキーはみんなどこに行ったのか、探している姿が、今でもまぶたに浮かんでくる。。クッキーには酷なことをしてしまったね。 

  もっともっと、たくさん思い出はあるけど、書ききれないのは残念だ。また、いつか思い出しながら書いてみたい。 その4ではちょっとスキップしてサウスカロライナで一番最後に住んだ家を紹介することにする。

Tuesday, April 03, 2007

アトランタ -サウス・カロライナ その2

 金曜日はゆっくりドリスの家で休んで、朝は9時半頃までゆっくり寝させてもらった。フランがまたスクランブルエッグやビスケットを用意してくれていた。少し休んでから、10時半頃から主人が通っていたノースグリーンビル・ユニバーシティー(主人が通っていた頃はカレッジだった)を訪ねた。

 ここに写っているアパートはブレージャー・アパートメントといってカレッジ・ハウジングである。向かって右端の一階がアメリカではじめて家族で住んだアパートである。来る前からドリスとフランがこのアパートに決めてくれて、後は教会のメンバーの人たちがベッドから家具まですべて用意してくれていた。フードパントリーには缶詰や食べ物がたくさん用意されていたし、キッチンには日本から送った荷物がたくさんつまれていた。フランと教会の男性たちが一生懸命運んでくれたのだろう。本当に感謝だった。

 このアパートは意外に広く部屋は2ベットルーム、1バスルームだったが、唯が三輪車を乗り回せるほどの広さだった。日本のアパートから比べるとすっごく広いので来た当時は本当この広さに感動した。7月に着いたので学校の始まる8月の中旬までゆっくりと荷物を片付けることが出来たのを覚えている。家の前は広大な広場になっていて芝生が延々と植わっていた。その先にはハイウェー14があるのだが、当時は1時間に一回くらい車が、ものすごいスピードで過ぎていくくらいで、信号もない。夜になると街頭が数えるしかないので真っ暗。明かりといえば、驚くほどの蛍がクリスマスツリーみたいに見えたのが印象的だった。すごいところだと、都会育ちの私たちは、毎日感動の日々を過ごしていた。

 グローサリーはドリスの住んでいる町まで下っていかないといけないので、30分くらいかかったのが苦痛だったが、アパートには洗濯機が備え付けてなかったので、週末に洗濯物をもって町にでて、洗濯している間に買い物をしたりしていた。たまに夜が遅くなると、帰るのが億劫だった。ヤードセールとウォールマートは毎週のルーティーンのようによく通った。ヤードセールでは唯の洋服をかったり、オモチャを買ったりしたし、ウォールマートでは$の感覚のない私たちは「安い、安い」と何でもかんでもよく買ったものだったが、後になってから、主人と二人で、何て馬鹿買い物の仕方をしたのだろうと悔いた。その頃には5ドルのものも、高いと感じるようになっていたなぁ~。 

 この写真からも見えるが、家の周りはさっきも言ったように芝生一面だったのに、今は裏庭もフロントもみんな駐車場になっていた。このアパートの前にもう一件アパートが建って、景色がずいぶんと変わってしまった。でも、学校に着いて、周りを見渡したら、唯が3歳からプリスクールに通っていたことや、唯の学校の先生が南部訛り強かったために、唯が相当訛っていたことや、主人のリサイタルを見に行ったことや、男子の寮のランドリーに洗濯しにいって洗濯してたら、キャンパス・ポリスがきて、「ここは男子寮だから、女子寮の方のランドリーを使ったほうが安全だよ」、って教えてくれたこととか、いろいろな思い出が思い出されて、胸がいっぱいになってしまった。わたしでそうなのだから、実際にこのキャンパスで勉強していた主人はもっともっと、深い思い出がこのキャンパスにはあるのだろう。 次回はこの家の次に住んだ家を紹介したい。