Monday, February 26, 2007

人生の節目-カーターさんの退職式に思ったこと....

先日私の仕事場でカーターという方のリタイヤメントのレセプションがあった。彼とは仕事でも一度も話したことはなかったのだが、ペーパー上で彼はトラベルをよくしていたので、名前を見ることは何度かあった。どんな人なのかも全然知らなかったが、オフィスの人たちがレセプションに招かれたので呼ばれることにした。リタイアメントのレセプションは大概その人の経歴や、仕事の功績などがどんなにすばらしいものであったかを仕事で一緒にかかわってきた人たちが分かち合って、「ああ~この人は長い間がんばってきたんだな~。」って「人生の節目がこの人にはやってきたんだな~。」といろんな思いが巡るが、リタイヤする本人にしてみれば、もっと、もっと複雑な気持なんだろうといつも思わされる。よく聞くのは退職した後は、今まで出来なかった家の修理や、孫たちと戯れたりするじっくりした時間を持つことが出来ることは確かで、仕事しているよりも結構細かいことで忙しくなったりするのだろう。夫婦でゆっくりいけなかった旅行を時間を気にすることなく楽しむこともできるだろう。しかし、退職してみてからしかわからない、言葉にならないような、楽しいような、悲しいような複雑な気持になるのだろう。。。。

 今まで何度か人生の節目と言われる結婚式や、退職式、お葬式と出席したことがあるが、カーターさんの退職式は私の心に残るものとなった。彼の家族や多くの友人がこの日のためにやってきたが、印象的だったのは彼の教会の牧師が招かれていたことだ。家族や同僚が彼への思いをシェアーし、彼がどんなにキリストの愛を持った人であったか手に取るようにわかった。特に牧師の発言の中で、彼は、家でも、教会でも仕事場でも同じクリスチャンとしての変わらぬ態度で接していたということは簡単のようで難しいことである。つい、家族の中では気が緩み、外で気負ってきた分を家で脱ぎ捨ててしまい、家で同じ態度をとることはけして容易でないはずだ。しかし、彼の奥さんも、子供も、夫として、父として信仰に基づいて家族に対する愛を忘れずに忠実に守ってきた彼に感謝していることを彼に伝えていたことも印象的だった。、きっと彼もそんな言葉を彼らの口から聞くことが出来たことは大きな恵みだったであろう。彼の家族を含めて親戚や知り合い人たちの口々から出てくる一人一人の言葉は神様からのメッセージのようであった。そこに来ていた人たちはカーターさんの神様中心の行き方を見たに違いない。彼は、最後に聖句で感謝の言葉として閉めていたが、その後祈ればまるで教会に入るような気さえした。私の目からは彼は神様の証人として立派に歩んでいる人に見えた。わたしは自分を振り返り、私は紙の証人として歩んでいるだろか?と心をサーチせずにはいられない気持になった。世の中の常識になんとなくはまってしまって、キリストの証人である自分を忘れてしまっているのではないかと自分を見直さなければとならないと思わされた。そこに来ていた人たちのなかでクリスチャンでない人はきっとぎこちなさを感じていたに違いない。でも、それでいいのだと思った。そうでなければその人たちはいつキリストの言葉を聞くのだろう?いつキリストの証人に出会うことが出来るのだろう?そんな中からどうして彼はそんなにも神様のことを言うのだろう、と疑問に思ったことでもあれがば、それは始めの第一歩だと思う。その疑問から答えが与えられるかも知れないからだ。自分の人生で何度神様をリプレゼントする機会が与えられるだろう?私は何度も、何度も節目、節目にかかわらず、その機会が与えられることと、その勇気が与えられることを祈っていきたい。そして、毎日なんとなく通り過ぎてしまう毎日の中で神様の時間を無駄に使うことなく歩んでいくことが出来るように気を引き締めていたいものである。


神よ、私の心を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷ついた道があるか、ないかを見て私をとこしえの道に導いてください。 

                          詩篇139:23-24

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